2014年08月21日

最相葉月 『セラピスト』

 (おそらく)心理学クラスターの中では話題になっている最相葉月・著『セラピスト』を読みました。




 日本におけるカウンセリングの黎明期から紐解き、現在の心理臨床の状況まで触れられていますが、本書で特に中心に取り上げられているのが河合隼雄が日本に紹介した箱庭療法と中井久夫が考案した風景構成法です。
箱庭療法に関しては実際の症例が紹介されていたり、風景構成法は著者自ら中井久夫の元で風景構成法などを行う様子も描かれていて、知識として知っていた箱庭療法や風景構成法の理解が深まり、なるほどーと思うことが多かったですし、心理臨床やカウンセリングというものがまだそれほど普及していない頃の日本で、精神障害者や不適応状況にいる人たちをいかに理解するか、いかに治療するかをひたすらに追求し続ける心理臨床家たちの姿に心が熱くなりました。

 本書で紹介されている箱庭療法や風景構成法は内面を表現する力によって成立する心理療法ですが、現在では、このような想像力を利用した心理療法がやりにくいケースが多くなっているとのことです。
つまり、自分の内面を表現し向き合うことができない人が多くなってきており、主体的に悩むことができないケースが増えてきたことを示唆しています。
 対人恐怖症や境界例もかつてほど注目されることはなく、それに代わって、一体なにで葛藤しているのか分からずなんだかもやもやしていて、そのもやもやが一定以上に高まると突然にリストカットや薬物依存、暴力といった行動化が生じるケースが多くなってきたそうです。

 そのため、従来の心理療法のあり方では効果がないことも多くなってきたそうで、また現在のニーズにあった心理療法が現れてくるのでしょう(もしかしてこういう背景があるからこそマインドフルネスが最近注目されてきているのかな?)。

 著者はかつて『絶対音感』という著作で一躍有名になったノンフィクションライターで、さすが文書を書くプロだけに、心理臨床の専門家が書く本とはまた違う読ませる構成・文章で書かれています。
 将来、臨床心理士を目指す受験生の方には、ぜひ読んでほしい一冊です。

posted by 山崎 at 15:32| Comment(0) | 本(読み物)

2013年05月28日

『子育てプリンシプル』

最近キンドルをインストールしてからというもの電子書籍ばっかり読んでますが、長らく図書館で予約待ちしてた本がきたので久々に紙の本を読んでます。

奥田健次 『子育てプリンシプル』

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著者の奥田健次氏は、以前テレビのドキュメントを見て以来、今もっとも(私が)注目している臨床心理士です。

 応用行動分析をベースにした技法で、10年以上にわたり育児や子育ての教育相談を年間1000件以上行ってきた「子育てブラックジャック」(と帯に書いてある)。主に発達障害のお子さんとその家族への指導を行う出張カウンセラーとして活躍されています。

まず冒頭の文章からちょっと過激(?)です。

「自分が子どもを持つ前に育児本を書きたかった。育児の講演をするとよく「でもあなた子どもいないじゃない」という人がいるけど、そういう人は、何千例も外科手術を行ってきた敏腕外科医に「でもあなた実の娘の手術したことないじゃない」って言うのと同じぐらいおかしい」(←意訳:私)。

 たしかにこれは納得です。
 よく自分の子育ての体験談のみで子育てに関する本を書いたり、ちょっと有名になる先輩ママがいますが、それはごく少数のケースの成功事例であって、一般化できるかというと疑問な部分もあります(で、そういう人に限って、自分の成功に固執したりする…)。
 
 うちも娘が保育園に行っていますが、「やはり保育のプロは保育士さんだなー」としみじみと思うことがよくあります。これまでに関わってきた子どもの数が圧倒的に違いますからねー。
 もちろん、自分の子どもの育児・教育のプロはその親本人であるべきですが、持論や主観や自らの成功経験に縛られず、素直に専門家の意見を一旦受け入れる余裕というか能力は必要だなと思います。

 ちなみに、「あなた子どもいないでしょ」というのは決まって子どもを持つ女性からであって、男性から言われたことがないというエピソードも興味深いです。母親と子どもの特殊かつ密接な関係性を表しているのかなと思いました。

 書いてあることは至ってシンプルで、子どもに振り回されず、しっかり家庭での軸を持ち、その軸からぶれない子育てを行いましょう、ということです。その子育ての技法として応用行動分析を応用した方法などが書いてあります。(まだ途中までしか読んでないですが…)
 
 子どもの教育をしっかりしている親にとっては当たり前のことばかりが書いてあるかもしれませんが、私にはかなり耳の痛い話が多いです…。
 
posted by 山崎 at 09:03| Comment(0) | 本(読み物)

2012年09月15日

「試験勉強という名の知的冒険」

こんにちはー、山崎です。
今日から世の中は三連休です。
私も完全オフとはいきませんが、楽しみなイベントもいくつか予定に入っているので充実した3連休にしたいと思います。

さて、以前のブログで富田一彦氏の「英文読解100の原則」を紹介しましたが、同著者「試験勉強という名の知的冒険」を最近読んでとても感銘を受けました。やっぱりカリスマ講師と呼ばれるだけの実力のある人は、その人自身の教育哲学があってとても深いです。

試験勉強という名の知的冒険
富田 一彦
大和書房
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受験勉強というとただやみくもに知識を詰め込めばいいというわけではありません。もちろんそういう記憶力が必要な部分も大きい比重をしめていますが、やはりそれ以上に必要なのが考える力、抽象的にものごとを考える力です。

富田氏もこの本の中で、抽象的に物事を考える能力を鍛えるのが一番大事であり、教師はこの能力を高めるような授業をしなくてはいけない、と主張しています。

心理系大学院の受験に関しても、全く同じことが言えます。たくさん覚えることもありますが、やはり大学院という機関そのものが本来研究機関ということを踏まえれば、自ら自主的に情報収集し、研究ができる論理的思考力、抽象的思考力が大学院生には必要とされています。
だからこそ、大学院受験においては、研究計画書の作成にはしっかりと力を入れて取り組んでほしいです。

やはり受験生としては、「とにかく大学院に入学すること」が目先の目標になってしまいますが、現在の競争率の高い大学院受験を考えてみると、ただ大学院になんとか入り込める知識を詰め込むだけでなく、大学院に入った後も充実した生活が送れる思考力・論理力のレベルに達した人しか合格できない状況になっているように思います。

最近は子どもだけでなく大人にとっても「優しい」サービスに慣れてきていますが、やはり教育に関わるサービスはただ受講側の「快適さ」だけを追求していてはいけないし、それでは本来の受講者の目的である「大学院合格」を達成することもできなくなり、そもそものサービスを提供できない、ということにつながります。
なかなか難しいですが、もっともっとプロロゴスがどんな塾であるべきかを考えていかなければいけないですね。

posted by 山崎 at 13:06| Comment(0) | 本(読み物)

2012年08月25日

『開かれた小さな扉』

先日、人間環境大学大学院の過去問を見ていたら、アクスラインによるディプス少年との遊戯療法の過程を書いた『開かれた小さな扉』という本からの抜粋が問題として掲載されていました。

その問題の抜粋だけを読んでも、ディプス少年の成長が感動的だったので、図書館で早速この本を借りてきて読んでみました。

とても素晴らしい本です。

開かれた小さな扉―ある自閉児をめぐる愛の記録
バージニア・M. アクスライン
日本エディタースクール出版部
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遊戯療法を行うにつれて、真の自分を表現するようになり、どんどんと快活になっていくディプス少年の生きるエネルギーは読んでいるこちらも元気にしてくれます。

さて、読んでいて一番思ったのは、アクスラインのディプス少年に対する働きかけが本当に「非支持的」なところでした。(もちろん帰る時間になるとちゃんと帰宅を促す発言をするなど、すべての発言が「非支持的」というわけではありません。)
アクスラインといえばロジャーズ派の遊戯療法ということですが、ちょっとびっくりするぐらい非支持的でした。

例えばこんな状況がありました。

ディプス少年 「指絵具はぼく興味ないの。ぼく絵を描くよ」
アクスライン女史 「絵を描く方がいいと思うの?」

ディプス少年 「ぼくレギンス脱ぐよ」
アクスライン女史 「脱いだ方がいいと思う?」

などなど。
もし自分が子どもと話をしているときにこんな状況になったら、
「絵を描くよ」→「じゃあクレヨンと紙持ってきてあげるね」
「レギンス脱ぐよ」→「自分で脱いでね」かまたは脱ぐのを手伝う。

となるんじゃないかなーと思うんですが、アクスラインは問いかけをすることで、絵を描くとかレギンスを脱ぐという行動を促進するのではなく、ディプス少年の気持ちにフォーカスしているんですね。このような問いかけを行うことによって、自分の感情や意見が明確になり、自主性が生まれるという考えが根底にあるのでしょう。

事例の本なので、小説のようにどんどん引き込まれる面白さがあります。
有名な事例のようですので、ぜひ興味のある方は読んでみてくださいね。
posted by 山崎 at 09:36| Comment(0) | 本(読み物)

2012年08月14日

オオカミ少女はいなかった??

こんにちはー、山崎です(^^)
今週1週間は、塾も夏季休業中。普段よりも少し時間の余裕があるので、読みたかった本を集中して読もうかなーと思ってます。

さて、今日読み終わったのが「オオカミ少女はいなかった」という本です。
これは、心理学にまつわる神話(=すでにその信ぴょう性が疑われていたりする話や事象)を詳細に分析しているのですが、これがとっても面白いです!!

オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
鈴木 光太郎
新曜社
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最初の例に挙げられているのが、本のタイトルにもなっている「オオカミに育てられた少女」。
これは、インドでオオカミに育てられたという1歳半と8歳の少女アマラとカマラのエピソードです。彼女たちは森の中にいるところをシング夫妻に助けられ、その後夫婦の下で育てられました。アマラはその1年後に亡くなりますが、カマラの方はその後8年生きたそうです。助けた当初はまさにオオカミのように四つん這いで歩き、生肉しか食べず夜行性、言葉も教えたそうですが、その歩みは遅く30語ほどしか覚えることができなかった、という事例です。
私が大学生の頃の発達心理学では発達における幼少期の環境の重要性と臨界期を示唆する例としてよく聞いた憶えがあります。

しかし、この話、少なくとも「オオカミに育てられた」ということは事実ではないようです。
動物の行動に詳しい専門家によれば、自然に生息する野生動物が他種の動物を育てるということはありえないらしいので、オオカミが人間の赤ちゃんも育てることは考えにくいそうです。そもそもオオカミの母乳成分は、人間の赤ちゃんが消化できるものではないとのこと。
また、オオカミ少女である証拠として、いくつかの写真があるのですが、よくよく見てみると明らかに偽装の跡があります。数年に渡る写真といいつつ、背景などから同じ日に撮った写真であるとか、カマラが四つん這いで走る姿を映した写真(足の動きが早くてブレテ映ってる)も、四つん這いになっている写真を複数ズラして合成していることが分かります。

いずれにしても、森に捨てられたということは事実であっても、「オオカミに育てられた」という説明はかなり怪しいようです(というか実証のしようがない)。

そういえば、最近の心理学の教科書ではこの事例見かけないよなー、と思って手元の心理学の概論書をひっぱってきてオオカミ少女の記載があるかどうか確認してみました。

その結果、手元にある心理学概論・発達心理学概論の教科書5冊を調べてみたところ4冊ではオオカミ少女の記載がありません。1冊だけアマラとアマラの記載がありましたが、初版が1994年と10年以上前のものなので、もしかすると改訂版では削除されている可能性があります。


ただ、オオカミ少女の話というのは広く知れ渡っており、「いや、ほんとはなかったんだよー」と言ってもすでに焼石に水なのかもしれません。
一つには、オオカミ少女の話は、育児における環境の重要性を伝えるメッセージの中に入れ込むと、話が衝撃的なだけに伝えたいメッセージの説得力が増す、ということがあります。しかし、だからといって信ぴょう性の極めて低い事例を引っ張ってくるというのは、事実に対して誠実な態度ではないと思います。それに、信ぴょう性の低い(あるいはすでに否定されている)話をわざわざ持ってこなくても、「育児に家庭環境は大事」なのは事実ですからそれをストレートに言えばいいだけの話ですよね。

他にもサブリミナル効果の話やお母さんが赤ちゃんを左手で抱っこする話など心理学では有名な話が俎上に挙げられていてとても面白いです。そして、教科書に書いてあるから、えらい研究者が言っているから、と内容を鵜呑みにせず、一次文献にあたり、クリティカルに読むことの大切さを実感しました。

posted by 山崎 at 17:17| Comment(0) | 本(読み物)